Mag-log in王太子アーヴィンの執務室は、いつ来ても整いすぎていた。
エドガルは、昔からこの部屋が苦手だった。 机の上には、必要な書類しか置かれていない。 窓辺の花瓶には、季節の花が一輪だけ。 書棚には、背表紙の高さまで揃えられた資料。 壁には王国地図。 そして、空気そのものに余計な甘さがない。 エドガルの執務室とは違う。 いや、違うと言うより、今の自分の執務室がひどすぎるのだ。 昨日まで、それに気づいていなかっただけで。「座れ」 兄の声は、いつも通り静かだった。 怒鳴らない。 焦らない。 責める時でさえ、声が乱れない。 その落ち着きが、エドガルには昔から腹立たしかった。 兄は失敗しない人間なのだと思っていた。 少なくとも、そう見えるようにオルガ・ヴェルクレア公爵夫人は、受領書というものを軽く見ていた。 少なくとも、以前の彼女はそうだった。 物資が届けば、使用人が確認する。 寄付金が動けば、会計係が記録する。 茶会の収支は執事長が整え、礼状は書記係が下書きし、最後に夫人である自分が目を通して署名する。 それが、公爵家の慈善だった。 美しい封筒。 整えられた字。 感謝の言葉。 夫人方の穏やかな微笑み。 銀の茶器。 白い花。 そこに、木箱の数や、毛布の枚数や、石鹸の重量などというものが入り込む余地はなかった。 少なくとも、オルガの中では。 だから、彼女は今日、王宮東棟の雨音基金準備室で、一枚の受領書を前にして、完全に固まっていた。「公爵夫人」 監督官の声は、決して荒くない。 むしろ丁寧だった。 丁寧すぎるほど丁寧だった。 それが余計につらい。「こちらの欄には、納入予定数ではなく、実際に受領した数を記入してください」 オルガは、羽根ペンを持ったまま、紙を見つめた。 納入予定数。 実際に受領した数。 似ている。 いや、似ていないのかもしれない。 だが、今の彼女には似て見えた。 書類にはこうある。『冬季支援用毛布 納入予定数:百二十枚 実受領数:百十六枚 不足数:四枚 備考:運搬中破損二枚、積込時確認漏れ二枚。再納入予定あり』 オルガは、その一番上の百二十枚を見て、受領欄へ百二十と書いていた。 美しく。 とても美しい字で。
第99話 宰相夫人のひいき リディアがハーグレイヴ伯爵家から受け取った最初の返事は、財産記録ではなかった。 正式な抗議状だった。『王国監査官リディア・ヴェルクレアは、私的な家族経験から生じた偏見により、善良な寄付者を不当に犯罪者扱いしている』「善良な寄付者」 ギルベルトが、感情のない声で読み上げた。 感情がない時ほど、彼は怒っている。 レイヴァン邸の朝食室。 焼きたてのパンも、温かい卵料理も、誰にも手をつけられないまま冷め始めていた。「続きがあります」 リディアは抗議状の二枚目をめくる。「読みたくない」「公文書です」「君が読めばいい」「先ほどから読んでいます」「私の前で読むな」「同じ部屋にいるので無理です」 ギルベルトは抗議状を睨んだ。 紙に罪はない。 だが、今の彼なら紙へ爵位剥奪を命じかねない。「オズワルド・ハーグレイヴ伯爵は、公開審問を要求しています」 ロザリーが淡々と報告する。「監査官による権限濫用の有無、寄付者への不当な圧力、伯爵家の名誉毀損について、王宮で明らかにしたいとのことです」「受ける必要はない」 ギルベルトが即答した。「受けます」 リディアも即答した。 二人の声が重なった。「なぜだ」「拒否すれば、権力で隠したと言われます」「言わせておけ」「雨音基金の信用へ影響します」「君の安全より基金を優先するな」「今回は石を投げられていません」「
聖ルカ孤児院へ行く日の朝、ギルベルト・レイヴァン王弟宰相は、いつになく真剣な顔で荷物の前に立っていた。 王宮の会議室で旧貴族派と向き合う時も、ヴァルモント公爵の処分文書を読み上げる時も、ここまで険しい顔はしていなかった気がする。 目の前にあるのは、木箱三つ。 一つ目は、雨音基金設立前の臨時支援物資。 中身は新しい毛布、靴下、石鹸、薬草茶、簡易包帯。 二つ目は、子どもたち用の手習い板と筆記具。 三つ目は、王妃宮から届いた焼き菓子と干し果物。 そして、少し離れた椅子の上に、セレスティナが持参した焼き菓子の籠があった。 その籠だけ、なぜか誰も触れない。 リディアはそれを見て、少しだけ胸が痛んだ。 避けているわけではない。 ただ、皆がほんの少し警戒している。 前回の焼き菓子が、なかなかの硬さだったからだ。「閣下」 リディアが声をかけると、ギルベルトは木箱から目を離さずに答えた。「何だ」「そんなに見つめても、荷物は軽くなりません」「配置を確認している」「配置?」「馬車へ積む順番だ。一番重いものを奥に、すぐ使うものを手前に置く。孤児院到着後に運ぶ動線も確認した」「……本当に雑務係として本気ですね」 そう言った瞬間、ギルベルトが静かにリディアを見た。「雑務係ではない」「失礼しました。荷物係でしょうか」「それも違う」「では」「宰相だ」「宰相が荷物を運ぶのですか」「必要なら」 この人は本当に、必要と言えば何でも押し通せると思っている。 リディ
名前を決めるだけの会議ほど、長引くものはない。 リディアは、王宮東棟の会議室でそれを思い知っていた。 机の上には、新しい救貧基金の設立案が置かれている。 白羽の会を解体し、王妃宮から独立させ、支援先代表と監査局が関わる透明な基金として再編する。 そこまでは決まった。 支援先が直接窮状を申請できる窓口。 寄付総額、実支援額、運営費の公開。 礼状文面指定の禁止。 茶会費、装飾費、記念品費を寄付金から出さないこと。 支援先代表の運営監査参加。 王妃宮や特定貴族家の政治的影響排除。 大事な骨組みは、もう決まっている。 だが、名前が決まらない。 それだけで会議は三時間目に突入していた。「ですから、格式というものが必要なのです」 グレイシア侯爵夫人が、扇を閉じながら言った。 彼女は白羽の会の旧運営委員ではないが、王都婦人慈善連絡会の代表として出席している。 悪い人間ではない。 悪い人間ではないが、自分が格式という言葉を使う時、なぜ人が少し疲れた顔をするのかまでは、まだ理解していない。「救貧基金というものは、ただ物資を配る箱ではありません。寄付者に信頼を与え、支援先に安心を与え、王都社交界にも品位ある形を示さなければなりません」 リディアは、手元の候補名一覧を見る。 一つ目。『王妃宮救貧基金』 却下に近い。 王妃宮から独立させるための基金なのに、王妃宮と名付けてどうするのか。 二つ目。『王国慈善透明基金』 正しい。 とても正しい。 だが、あまりに硬い。 監査局の書類棚
ユージーン・ヴァルモント公爵は、最後の日にも白い手袋をしていた。 皺ひとつない、上等な手袋だった。 灰色の礼服も、銀の杖も、磨かれた靴も、昨日までと変わらない。 まるで、自分は何も失っていないのだと言い聞かせるような整い方だった。 王宮東棟の処分確認室。 そこに集められた者は多くない。 王太子アーヴィン。 王弟宰相ギルベルト。 王国監査官リディア・ヴェルクレア。 監査局記録官ロザリー。 補助官セオ。 そして、ヴァルモント公爵本人。 以前のように旧貴族派の取り巻きはいない。 夫人方もいない。 式部局の者も、王妃宮の女官もいない。 ただ、処分文書と、署名台と、証人たちだけがある。 それがかえって、ヴァルモント公爵の孤立を際立たせていた。 リディアは、机の上に置かれた処分文書を見つめた。 紙は厚く、白い。 だが、王妃宮の白さとは違う。 隠すための白ではない。 記録として残すための白だ。 アーヴィン王太子が、静かに口を開いた。 「ユージーン・ヴァルモント公爵。白羽の会、王妃宮名義書簡、慈善支援配分、式部局評判整理案、ならびにヴァルモント公爵家秘書室関連文書について、王太子府および王国監査局は最終処分を決定した」 ヴァルモント公爵は、深く礼をした。 「拝聴いたします」 声は穏やかだった。 けれど、昨日までの余裕はない。 その穏やかさは、薄い氷のようだった。 触れれば割れる。 ただ、まだ割れていないだけだ。 アーヴィンは文書を読み上げる。 「第一。ユージーン・ヴァルモント公爵の王宮内全役
婚約発表の翌朝、リディアはいつも通りに起きた。 劇的な朝ではなかった。 小鳥が祝福するように鳴いたわけでもない。 窓から差し込む光が、昨日より特別に輝いていたわけでもない。 枕元に薔薇の花束が置かれていたわけでもない。 ただ、いつも通りの朝だった。 少しだけ違うことがあるとすれば、机の上に昨日の婚約発表で受け取った祝辞の束と、聖ルカ孤児院からの手紙と、ギルベルトから届いた封書が並んでいることくらいだ。 リディアは寝台から起き上がり、まず自分の手を見る。 昨日、自分の名前を言った手。 リディア・ヴェルクレア。 王国監査官。 そして、ギルベルト・レイヴァンの隣に立つことを自分で選んだ人間。 そう言った。 言えた。 その事実は、まだ胸の中で少し熱を持っていた。 夢ではなかったかと疑って、リディアは机の上の封書を見た。 ギルベルトの字だ。 硬く、まっすぐで、少し力が入りすぎている字。 昨日の夜、祝いの場から戻った後に届けられていた。 甘い言葉が書かれているのだろうか。 婚約者らしい、柔らかな言葉が。 そう思って開いたリディアは、最初の一行でしばらく沈黙した。『朝食を取ったか。取っていないなら、この書簡への返事より先に食べろ。』 ……婚約者からの、婚約発表翌朝の手紙である。 リディアは、便箋を持ったまま目を閉じた。 甘い。 いや、甘くはない。 まったく甘くはない。 けれど、妙にギルベルトらしい。 その下には続きがあった。『昨日はよく立っ







